巨人の肩に立ちたいゲイ

30代ゲイのブログ。ゲイとしての考えたことをアウトプットしたり整理したりするような場にできればと思っております。やまとなでしこの頃の堤真一が好きです。

吉田兼好の恋愛観にみるオープンリレーションシップの潜在的優位性

ブログの書き出しをどうするか考えていると,思い悩んで,それでも熟考した形跡は見せたくなくて,あくまで軽やかさを装い「徒然なるまゝに 日暮らし 硯に向かいて」なんて徒然草の冒頭を引用したくなるわけですが,それだとあまりに凡庸だなと思って毎回自分の貧困な発想力を戒めてまいりました.しかしながら,最後にブログを書いてから250余日経過しており,あろうことかその内容が台湾エロマッサージの体験談とあっては背に腹は代えられません.ということで,僕の好きな第三段から引用して語り始めることを決心しました.

 

万にいみじくとも,色好まざらん男は,いとさうざうしく,玉の巵の当なき心地ぞすべき.

露霜にしほたれて,所定めずまどひ歩き,親の諫め,世の謗りをつゝむに心の暇なく,あふさきるさに思ひ乱れ,さるは,独り寝がちに,まどろむ夜なきこそをかしけれ.

さりとて,ひたすらたはれたる方にはあらで,女にたやすからず思はれんこそ,あらまほしかるべきわざなれ.

 

「徒然草」第三段 

 

まあ,男たるもの色を知らないといけないよね,でもチャラつくのも良くないし,ちょうどいい感じの男がモテるよね,みたいな感じですね.うん確かに.これを書いている吉田兼好は粋法師などとも呼ばれたラブレターの達人でもあるわけですから,性別や性指向を超え,一般論として現代に通ずる部分も多いのかもしれません.

 

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徒然草インスパイアのコラボ企画があったらしいですよ.参加アーティストは好きだけど...

 

さて,このモテ男の系統というのはゲイである僕にとっても心当たりがありまして.僕には複数の,知り合いというか飲み友達というか所謂セフレがいるんですけれども,まあだいたいが彼氏持ちなんですよね.やっぱり彼氏持ちというのはこの時間断面において「誰かに選ばれたことのある」「誰かを選ぶだけの魅力を備えている」男であるわけで,それなりに見どころのある人物であるということが期待できるわけです.まさに色好む男です.更には,彼氏がいる,即ち(有)であること自体がたやすからず思はれんこそ,となるわけです.自分には100%の好意を向けてくれることはないのだなあ,という詠嘆なわけです.

 

それにしても,やっぱりゲイ界隈におけるオープンリレーションシップの普及度合には目を見張るものがございます.みなさん,ちゃんとお付き合いしながらもやることはやっているという印象.一番長い方で13年付き合ってるようだし,他にも10年だとか8年だとか,そろそろ同棲を考えているけど「お互い動き難くなるのは2人の関係にとってリスクだからペンディング中」みたいなことをベッド上のインタビューで聞き出すたびに,なんとなく面白いというかむず痒くてクスクス笑ってしまうのです.なんだか人間の生の部分を垣間見た気がしてまさに,あふさきるさに思ひ乱れだなとしみじみです.本当は「さるは,独り寝がちに」だともっと愛らしいのですが,さすがにセフレが僕だけということもなさそうな人たちですから,そこまでは望めないかな.

 

翻って,それではどんな人があまり好ましくないのかも考えてみました.そもそも色好まざらん男はアプリで僕のアクションに応えることもないでしょうから観測対象外として,やはりひたすらたはれたる,つまり恋愛やセフレの関係性に溺れている・振り回されていると感じる人にはあまり魅力を感じないように思います.これはある種の大人の余裕を感じさせてほしい,という僕の内なる願望が投影されているのでしょうか.年上の方にばかり目が行くという性癖と無関係ではなさそうです.

 

時々いません?基本的に彼氏 or nothing な会話の構築しかする気のない方.アプリでメッセージをやり取りする時点から「なんだか好きになってきちゃった...(*´ω`*)ポッ」みたいなテンションであるとか,一度や二度会っただけで「付き合うか付き合えないかはっきりして」みたいなワードが飛びだすとか.彼氏を作りたい,付き合うことこそ至高,という考え方はそれ自体無矛盾だと思いますが,あくまで個人の世界観で閉じた場合の話.僕のように「まずは人となりが知りたいし,ゼロイチで割り切れない曖昧な関係も許容したい」という優柔不断で性にだらしない男もいるのです.

 

妻といふものこそ,男の持つまじきものなれ.「いつも独り住みにて」など聞くこそ.心にくけれ,「誰がしが婿に成りぬ」とも,また,「如何なる女を取り据ゑて,相住む」など聞きつれば,無下に心劣りせらるゝわざなり.

 

(中略)

 

よそながら時々通ひ住まんこそ,年月経ても絶えぬ仲らひともならめ.あからさまに来て,泊り居などせんは,珍らしかりぬべし.

 

同 第百九十段 

 

彼の仏教的な男尊女卑は置いておくにしても,僕にとっては結構納得感のある恋愛観・結婚観が続きます.独身だと聞くと奥ゆかしく感じるけれども,結婚してます同棲してますとかいう男は萎える.一緒に住むとかどうかしているから,せいぜいが時々通ってお泊りするくらいがベストだよね,とのことです.流石に徒然草の作者だけあります.時代を超えています.

 

先程,彼氏持ちの人々を「誰かに選ばれたことのある」「誰かを選ぶだけの魅力を備えている」と説明しましたが,「誰かに占有されている」でないことに注意が必要です.やはりある種の安定的な状態,閉じた環境に置かれている人のことをあまり面白く思えないという事象にはそこそこ普遍性がある気がするのです.安定的な関係性を長期間持続すると,価値観が固定化するとか,ある意味で独善的なものの見方をするきらいがあります.それって会話のテンポを損なうし,何より僕の目の前に現れないから僕にとって価値がないのです!

 

結局,付き合ってはいるんだけど,同棲するでもなく関係性を保っているようなのが望ましいと,もっと言うなら独身で色恋沙汰にそれなりに足を突っ込んでるほうが人間として魅力的であると,粋法師はそうおっしゃっているわけです.これはあくまで枕草子を枕にした私shouldersの随筆ですので,たとえタイトルが何らかの学術論文のような体裁をとっていたとしても科学的な検証は一切いたしません.しかしながら,中世日本の恋愛マスターの言葉が現代を生きるゲイにささっているという事実は看過できないのではないでしょうか.

 

別に僕も彼氏欲しいななんて思うこともありますし,いたらいたで楽しいんですけどね,なんか彼氏至上主義ってのがよくわかんないんです.彼氏と別れた早く次の彼氏が欲しい,とか,そろそろクリスマスだ彼氏欲しい,みたいなの.一緒に体験を共有するに足る存在なのかを吟味する前に,単にお互い占有しあえる・依存し合えるリソースを探しているだけに見えることがあります.不倫というか不義理というか,ある種負の連想が付きまとう「彼氏持ちのセフレ」ではありますが,僕個人としての満足度は高いです.これって貞操観念が崩壊しているってことなのか,30過ぎにして現実的なラインに落としどころを見つけたと解釈すべきなのか...いずれにせよ僕はもう少しこのような状況を楽しむんだろうと思います.

 

このブログが後世の人々に読み継がれることは万に一つもないでしょうが,徒然なるまゝに,日暮らし,ディスプレイに向かいて,心に移りゆくよしなし事を,そこはかとなく書きつくれば,あやしうこそものぐるほしけれ,という正に兼好の追体験をしてみたという日記でした.おわり.