巨人の肩に立ちたいゲイ

30代ゲイのブログ。ゲイとしての考えたことをアウトプットしたり整理したりするような場にできればと思っております。やまとなでしこの頃の堤真一が好きです。

ノンケ性あるいは自意識過小:「普段ノンケ生活です」の矛盾

いつの世も,ノンケと付き合いたい!付き合えないまでもノンケ喰いしたい!などという言説で溢れかえっているのがゲイ社会の常です.一定の需要があるのは確かでしょうし,それこそアプリでは「普段ノンケ生活です,ノンケっぽいって言われます」などという激寒ワードが依然として跋扈しています.ゲイは遺伝子レベルでノンケを好ましく思ってしまうよう設計されているとでも言うのでしょうか?

 

ここでまず論じたいのは,ノンケをノンケたらしめる要素は何か,という点です.もしくは,ゲイとノンケが排反な事象ではないとするならば,「ノンケ性の高さ」を定義して,それを要素分解することから始めると良さそうです.僕にとってのノンケ性,それはある種の自意識の希薄さという形で認識されている気がしていて,阿川佐和子は遠慮のない所謂”オバサン”を「無意識過剰」と称しましたけれど,なんらかの共通点が見出されるのではないかと思っています.月並みに言えば,ゲイは常に他人からどう見られているかを意識下・無意識下(subconcious)で気にしていて,これがゲイとノンケを隔てる最大の要素ではないかと考えているのです.一般化して,マイノリティとマジョリティを分かつものと解釈しても良いかもしれません.”オバサン”そしてノンケというのは,自分と他者・自分と社会を隔てる境界が1レイヤー少なく,世界は自分たちの見知った同質な存在で満たされていると信じているのです.従って本質的には他人のまなざしに頓着がなく,がさつです.そして我々はそんなところにノンケ性を見出し,ジュン...となってしまうのではないでしょうか.

 

「普段ノンケ生活です,ノンケっぽいって言われます」という言説に代表されるように,ゲイのモテを語る上でこのノンケ性は重要なポイントの一つのようです.しかし界隈で観察されるその多くは,男性性を演出するものではあってもノンケ性とはまた異なるのではないかと感じられます.マッチョ・短髪・髭の三種の神器はどれも男性性・テストステロン優位であることを連想させこそすれ,その過剰さは逆にノンケ性を喪失させてしまうのではないでしょうか.賛否はあると思いますけれど,例えばフィジークやってる人って大抵ゲイに見えてきません?(偏見)要は,自分の肉体の商品価値に自覚的であったり,男性性に対する切実な思い・羨望を感じてしまうと,ノンケをノンケたらしめていた何かが失われたと感じられてしまう,ということです.その意味において,”オバサン”を表現した「無意識過剰」と言うよりも,自意識の希薄さ,つまりは「自意識過小」がよりノンケ性の正体に迫っているように思えてなりません.

 

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きっとノンケ.たぶんノンケ.もちろん皆さん筋肉は素晴らしいです.

 

ゲイと筋肉は分かち難く結びついていますので,もう少し事例ベースに考察を深めていきましょう.再三述べている通り僕のはじめてのおかずは体育の先生ですし,つまるところ僕は筋肉が大好きです.しかし,そんな僕にとってもノンケ性を感じる筋肉とそうでない筋肉があるのです.ノンケ性を感じさせられるのは無頓着についた筋肉,つまり部活や仕事で副次的に備わった筋肉.これには否応なくキュンキュンさせられてしまいます.一方で,意識して作り込まれた身体の場合には話が別です.やはりそこには本質的に無目的,裏を返せばモテ(=他者からの眼差し)のために作られた筋肉があるわけで,それが放つ自意識は如何ともし難い悪臭となって僕の嗅覚を刺激します.これはまさに同族嫌悪の臭いと言えるでしょう.筋肉に過剰に執着するその姿は僕自身のグロテスクな自意識過剰さの写像でしかなく,それを直視できるほど僕は精神的に成熟できていません.ま,だとしても筋肉は筋肉ですからね.もちろん拒んだりはいたしませんけれど.

 

以前,蓮實重彦がインタビューか何かで三島由紀夫について語った言葉を読んだのですが,そこで彼は「運動神経の悪い人間(三島)に良い文章が書けるわけがない」という旨の発言をしていたことを思い出しました.当時学習院ではアオジロとあだ名されていた非肉体派の三島はしかし,30代を過ぎたあたりから突如としてボディービルに目覚めます.褌姿の写真を目にしたことのある方も多いかと思いますが,あれは結局彼の身体的コンプレックスから来るものであったという評価が一般的なようですね.「潮騒」には彼の願望が見え隠れしており,初江と新治の恋愛に違和感しか感じられないのは,恐らく三島の性的指向と無関係ではないでしょう.三島のような,ある時点から狂信的に体を鍛えだすという所謂「肉体ロンダリング」とも言える営みは,最近であれば松本人志・長渕剛などでも有名な現象ですし,そして多くのゲイに当てはめることができそうです.特に身体的な在りようがモテに直結するゲイ業界においてはことさらコンプレックスが強化されますから無理からぬことでしょう.しかしこのようにして鍛え上げられた身体にノンケ性が宿るかと言われれば,それは甚だ疑問なわけです.

 

ここまでの論考に基づいて判断するならば,「普段ノンケ生活です・ノンケっぽいって言われます」はそう口にした時点から途端に輝きを失います.残念,あなたにノンケ性を感じません.そもそも(僕の中の理想の)ノンケはノンケなんていう言葉を使いませんし,ノンケという自他の線引を極めて強く意識したワーディング,そしてその価値に自覚的であるという事実は,一瞬にしてそれ自身の価値を毀損してしまうことになるのです.鍛えられた身体もそれ自体は好ましいものですし,本人の男性性を強固なものとはするでしょう.しかしノンケ性の向上には必ずしも寄与しません.結局ノンケ性というのはストーリー依存であって,それが内面のコンプレックスに根ざしたものであればむしろ逆効果なのです.

 

ところで,唐突ではありますが僕はノンケっぽいねってよく言われる(自慢)んですけど,相手がその表現をポジティブな意味で使っていると思えるときに,そのポジティブさ自体を嬉しいと感じることはあります. 要は褒められている事実が嬉しいってことですね.しかし実際問題,こんなブログを書くくらいには内面的にこじらせているタイプなので,当然のように自意識は過剰ですし,僕の口にする「ノンケ」というキーワードはほぼ確実に煽りです.この肥大化した自意識,どうせ肥大するなら筋肉にしてほしいものですが,兎にも角にも僕自身の定義に照らせばノンケっぽさの欠片もありません.まあ単純に,ノンケ男性特有の文化を表層的には共有できているというだけで,真実のノンケ性ではないということです.

 

恐らく,一般的なノンケっぽさというのはこの表層部分によって定義付けられているのでしょう.卑近な例ではAVとか風俗とか競馬とかパチンコとか野球とかサッカーとかビールとか,映画だとハングオーバーやアベンジャーズ,他にもAKB・釣り・ゴルフ・車・ウイイレ・パワプロ...といった類の話題.結局,このあたりをいくつか押さえておけば「普段ノンケ生活です・ノンケっぽいって言われます」をプロフィールに記載することも許容されるはずです.なんとなく納得感がありますね.先ほどとは対極にあるゲイゲイしさは,onlyfansとかゲイバー通いとかシャンパン・バレー・テニス・プラダを着た悪魔・かもめ食堂・ハロプロ・安室奈美恵・浜崎あゆみ・フィギュアスケート・ミュージカル鑑賞・カフェ巡り・スイーツ食べ放題・下着収集... このあたりが追加されてしまうと途端にノンケっぽさが遠のいていく気がしませんか?結局のところ,ノンケの定義に関する一般的なコンセンサスは存外このあたりにあるのかもしれませんね.

 

 これを好きだっていうゲイは本当に多い.ちなみに僕も好き.

 

てなわけで長々と独自のノンケ観を語ってきました.僕にとってのノンケ性は自意識の希薄さであり,それは過剰な男性性の誇示とは独立,むしろ逆相関がありそうだということ.そしてこれらは一人称視点から見たファンタジーに大きく依存しているため,結局は自分の中にある理想のノンケ像を勝手に相手に投影して楽しんでいるだけの不毛な試みである,ということです.従ってこのノンケ性の主張を自ら行うのは循環論法の如き違和感がついて回り,多くの人が何となくツッコミを入れたくなってしまうという仮説です.こんな考え方の僕ですから,リアルした相手に気軽に「ノンケっぽいね」などと言うことはありませんし,そもそも感じることもありません.僕の中ではノンケ性それ即ちがさつや無神経を意味するので褒め言葉ではないし,相手がゲイであると認識している時点で一定の自意識を仮定しているからでしょう.もちろんこれは大前提なのですが,僕は相手にノンケ性が無いということ自体は別に何の支障もございません.内省的なマッチョとかむしろ付きあいたいです.ただ単に,体を鍛えノンケっぽさを自称するやつはどんなにイケメンであっても「お前のそれはノンケ性ではないよ」と言いたいだけなのです.余計なお世話ですね.