巨人の肩に立ちたいゲイ

30代ゲイのブログ。ゲイとしての考えたことをアウトプットしたり整理したりするような場にできればと思っております。やまとなでしこの頃の堤真一が好きです。

オリンピック的能力主義下における多様性

多様性って何なんでしょうかね.僕の働いている組織でも多様性ってのは声高に叫ばれていますし,実際に一定以上の女性の採用や管理職への登用にはじまり,国籍・年齢・信仰・身体的なディスアドバンテージなどにも配慮した採用活動がなされていると感じます.しかし組織としての評価はあくまでアウトプットでなされるべきなので,いくら長期的な取り組みといっても多様性→好業績の関係性が再現できているのか注視していく必要がるでしょう.よくこの手の話に対して「マッキンゼーのレポートでは,多様性の高い企業は収益も高いと言われている!」みたいな主張を聞くこともあるのですが,それはあくまで相関であって,因果ではないんですよね.多様性を気にした採用ができるくらい既に財務的な余裕があるというだけかもしれないわけで.

 

ゲイである僕からすると,多様性が高い→企業の業績が上がるという因果関係が実証されるのならば,これは喜ぶべきことなのかもしれないです.一応セクシャリティもキーワードの一つに数えられるようなので,カミングアウトすれば憧れのあんな会社やこんな会社に入れちゃうかもしれないし.しかしながら,ここ数年で叫ばれはじめたような概念に関して,しかも企業活動という極めて複雑な事象に対して,この因果関係を示すのは相当に困難でしょう.多くの場合,多様性というのは「こんな世の中だったらいいよね」という紳士協定的なコンセンサスとして受け入れられているにすぎず,まだまだ学術的な見地からの精査は終わっていないような気がするのです.

 

さて,なんでこんなことを考えたかというと,録画していたオリンピック開会式の様子を遅ればせながら見たからなんですね.まあ普通にひどい出来というか,リオの閉会式でのパフォーマンスがかなりかっこよかったこともあり,それとの落差に震えたわけですが,そう感じるということは多少なりとも期待があったってことなんでしょうか.あれだけ直前にゴタゴタしたチームが作った開会式がどんなものなのか,興味本位・怖いもの見たさで視聴したというのはあるのですが.まあ,特にどのへんがひどかったかというのは見た人の感性によるんではないかと思いますけど,全体的な統一感のなさや物語性の欠如というのは多くの方が感じたところではないかと思います.演出の多くがアドホックで,できの悪いコラージュを見せられているような.

 

開会式に通底するテーマを見出すならば,コロナの苦悩と多様性ということだったのでしょうけれど.コロナはまともな社会生活を送っている限り否が応でも直面する類のものでしたし,その表現の完成度については議論があれども納得のいくものでした.しかし,IOC会長や橋本聖子が長々と語った「多様性と調和」についてはなんだかなという感じ.スポーツ,というか"競技"と多様性ってそんなに親和性の高いものなんでしたっけ.

 

社会のあり方や市民の道徳観念として互いにリスペクトし合う,みたいなのは納得感があります.でも,企業活動であれば「資本主義を受け入れる限りの」多様性しか許容されないですよね.生え抜き社員だけで構成されているチームよりも,転職者が多かったり学生インターンが混じっているチームのほうが面白いアイディアが出る,生産性が高いということは実感に反しません.しかしその構成は各々の組織が業務に合わせて最適化を繰り返した結果であり,やはり強いセレクションは働いています.例えば,多様性を推進している会社は日本人という母集団から無作為にサンプリングされた社員で構成されるべきでしょうか.男女は半々.これは良さそう.障害者も一定以上雇用される.問題なし.年齢はやはり団塊ジュニアがボリューム層でしょう.もっと若い人採りたくない?学歴は中卒2割・高卒5割で本当に大丈夫?それで業務が回る会社ばかりだとは思えません.

 

結局,多様性とは言ってもあくまで「競争力を損なわない範囲で」ということなのです.いくつかの(先進的な)企業は,多様な人材ポートフォリオを組むことが競争力の源泉に成り得ると考えており,それをKPIとして採用活動を行っているということですね.多様性と平均的・没個性的というのは全く違う考え方なんでしょう.

 

これは競技としてのスポーツにも言えることです.スポーツの振興を目的とし,平和の祭典として開催されるオリンピックは確かに多様性を主張する大義名分があるようにも思えます.しかし,アマチュア条項を撤廃しプロ選手(とか実業団・ステートアマ含む)ばかりで選手団が構成され,大会の注目度の高さからドーピングや八百長・審判の買収等が絶えず,結局は能力主義な成功概念の範疇から出てはいない.確かに多くの国と地域から選手が出場しており,その点では多様でしょうけれど,それとは別の次元で大きなお金が動いており,「金メダルって尊いよね」という思想に選手もメディアも,そして観客である僕たちも大きく影響を受けているわけです.いやまあ,これ自体には何の疑問もないんだけど,画一化されたルールの基で競うスポーツ"競技"って基本的に多様性というコンセプトとは相性良くないような気がすると言うか.オリンピックで多様性を主張するならば,他の競技会と一線を画す何かを明確にして,その仕組から見直さないといけないところあるんじゃないですかね?

 

 

最近のサンデルさんの新著でもこの能力主義を扱っているんですが,僕は自分自身に能力主義的なところがあるなと前々から思っていて,それはもちろん環境に恵まれた部分は大いに成るのだけど,やっぱり自分がリスクを取ってかつ努力したからこそ獲得できた能力だとも自負していまして.バランスを取るのは難しいなと感じるのです.体育会系な人が好きではなく,オリンピックに出るようなスポーツ選手には特有のふてぶてしさや一種の不遜さを感じ取ってしまいつつ,おそらく僕も別の側面で図らずも類似の態度が表出してしまうことがありそうです.まあオリンピアンと比較するというのもおこがましいことではあるのですけれど.サンデルはその処方箋として「共通善」を掲げていて,それはなんとなく納得できます.しかし果たして政治哲学が人々の思想や良識の分野に踏み込めるかどうか,その実効性は甚だ疑問と言ったところ.能力主義下で才能と努力に基づいて承認されたという成功体験はやはり強力でしょうから,「共通善」という美辞麗句など簡単に隅に追いやられてしまうことでしょう.多様性というトレンドも,もしかすると同じことなのかもしれません.

 

とはいえ東京はオリンピックですね.スマホには次々と結果速報が入ってきており,やはりお祭り的な雰囲気は肌で感じています.結局のところメインは各競技のメダル争いですからね,いくら開会式がぱっとしなかったからと言って.ちなみに,僕の中での開会式のハイライトは,なんと言ってもバヌアツとトンガの選手が半裸で旗手を務めた各国の入場シーンです.いやー,やっぱり逞しい筋肉というのは美しいものです.そしてエッチです.同じ太平洋島嶼部の国家ながら,メラネシアに属するバヌアツの選手は肌の色がかなり黒く,「メラ」といってもここまでアフリカン的な見た目に寄る人もいるんだなと思ったり,一方でトンガの選手のほうはモンゴロイド的要素よりも大分オーストラロイド寄りだなぁと思ってみたり.普段思い出すことのない各国の歴史や文化を,視覚的な刺激によって想起させられるのは何となく心地の良い体験でした.こーゆーのがオリンピックのいいとこだし,細部に注目してみれば自ずと人間の多様さって感じられるんだと思うんですけどね.

 

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トンガのピタ・タウファトファ選手.衣装も含めてめっちゃクール.