もう5年ほど前になるのでしょうか.CSかなんかのTV番組で紹介されて,以降どうやら一般にもある程度認知されるようになったらしい「ホモランドセル」なわけですが,現在でもひとつのネットミームとしての地位を確立しているように思います.ホモランドセルとはノース・フェイスのヒューズボックスのこと.よく見る四角いあれです.ホモがしょってるあれです.
スポーツブランドやアウトドアブランドはゲイ御用達とも言えます.やはり男らしさを強調したブランドイメージによるものでしょうか.冬場だと,同じノースのバルトロライトジャケットなんかも着ている人多いですね.CHUMSも人気だし,セブンイレブンでCHUMSのコラボエコバックがノベルティとして配布されたときには,とりあえず手に入れてみるというゲイが多かった気がします.
スポーツブランドだとやっぱりアンダーアーマーでしょう.ガチムチな人がみだりにピチピチのスリーブレスなコンプレッションを着ているのはエロいです.フィジーク指向の人たちはクロノスとかリフトなんかを着てるんでしょうけど,あんまりゲイに受けている印象はないですねぇ.あと最近はVetementsとかSupremeとコラボしたりして,ゲイ・ノンケ問わずChampionが人気のようですけれど,どうしてもダサいスウェットのイメージが拭えない僕はおじさんなんでしょうか.
さて件のホモランドセルです.当時あれを持っている人は確かに段違いに多かったと記憶しています.そこらじゅうホモランでしたし,背負っているひととのリアルも何度もありまして,正直なところその度に「うわ~」と思ったりしていました.しかし,ちょっと前に高校時代の部活の合宿にOBとして参加した際,現役の学生の過半数がノースのバッグつかっててちょっとびっくりしました.結局,シューズとか着替えとかドリンクボトルを入れることを考えるとかなり便利なのは間違いないわけで,理に適った選択をしているということなんでしょう.そらジム通いしているゲイが好んで使うのも納得ではあります.
まずもって,ホモランドセルというネーミングがゲイ業界に,そして一部ネット空間にクリティカルヒットしたのは,一重にその語感が強烈だったことによるのでしょう.「ホモ」という若干のいかがわしさが漂う言葉に「ランドセル」という無垢の象徴を組み合わせているのが天晴.「ランドセル」単体では没個性というような含意はあまりない気がするのですが,「ホモランドセル」となった同時に金太郎飴的ファッションへの揶揄が全面に押し出されるのも凄い.やはり多くのゲイが使っていて,しかもそれが一様に異様に映っていたからこそ,多くの人に納得感が生まれたんだと思うんです.
ホモランドセルに限った話ではないけれど,やはりゲイゲイしさ,イカホモさの感じられるファッションには一定の共通点を見出すことができます.それは「青春への憧憬」.完全に僕の偏見だけれども,高校生のする部活ファッションが見苦しく見えない最大にして唯一の理由は「高校生だから」です.すなわち「若さ」です.要は年齢相応,という社会的コンセンサスが存在しているから.それを侵して,30~50代のおじさんがハーパン・タンクトップにホモランドセルだとか,ポロシャツに磁気ネックレスとエナメルバッグだとか,それはもう本人の意図に関わらずコスプレになってしまうのです.ファッションは気候風土,着る人の年齢性別,職業・社会的ステータスなんかを反映したものに他なりません.これを意図的に逸脱するということは,「敢えてこう見られたい」という願望の発露に等しいと解釈できるわけです.
ホモランドセルが揶揄の対象となったのは,ファッションにおけるある種の規範から外れた個性的な出で立ちであることと,それが一部の閉じたコミュニティの中で再帰的に肯定され続けた結果生じる没個性さの奇妙な共存にあると言えそうです.量産型大学生的ファッションに対する批判や嘲笑と類似しているのですが,そもそもの基準となっているスタイルの完成度が大きく違っていますかね.やはりあちらは無難できれいめですから,それに対する一種のやっかみが含まれています.ホモランドセルに対してその感情はなさそうかなと.しかしまあ,一通り悪態をついたところでふと我に返るのです.スーザン・ソンタグはかつて著書のなかで以下のように述べていたはずです.
芸術に対して知性が恨みを果たそうという試みが、すなわち解釈なのだ.
そればかりではない.解釈とは世界に対する知性の復讐である.
解釈するとは対象を貧困化させること、世界を萎縮させることである.
- スーザン・ソンタグ「反解釈」より -
僕がホモランドセルについてこじつけっぽい解釈を述べるのもまた,ホモランをゲイゲイしく着こなす短髪髭マッチョに対する復讐の一貫ということかもしれません.僕もホモランの似合うゲイに相手をしてもらいたい,言い寄られたい!しかしそれが叶わないことを知っているからこそ,対象を貶めようとしているのです.
僕の個人的な敵愾心は置いておくにしても,彼女が語るのは,「何を」意図して表現しているかではなく,「どうやって」表現しているか,つまりは内容よりも様式こそ批評の対象として相応であるということ.初めてこの本を読んだ時には「まじかよ」と思ったことを覚えています.それまで,物事の本質というのは,目に見えない奥底に眠るものだと思っていたし,思わされてきました.しかしそもそも「本質」ってなんだろうか.それが目に見える形で,でも容易には説明できない形で存在していたっていいだろうということです.
ちなみに,筑摩書房の「反解釈」には著者の同時期のエッセーである「《キャンプ》についてのノート」も収録されています.2019年のMETガラのテーマが「キャンプ」だったことで再び注目を集めている表現様式なんだそうな.二丁目のCampy!barもこれですね.キャンプとは何なのかを語ったり見極めたりするだけの審美眼はもちろん僕にはないし,正直なところ興味も無いわけですが,もともとは所謂ドラァグ・クイーン的なスタイルを指したようです.
ソンタグはこの曖昧な未定義語の範囲を一般化して「不自然なもの・人工的なもの・誇張されたもの」などとしたようですけれど,だとするとホモランドセルも十二分にキャンプと言えるのでしょうか.むさ苦しい小太りのおじさんが大勢で,どう見たって部活帰りの高校生のコスプレをしているというムーブメント.これ以上に不自然で人工的で誇張されたものも無いでしょう.てなわけでイカホモファッションもまたキャンプだと思うので,みなさんぜひともこの火を絶やすことなくノースフェイスで武装していきましょう.スタイルは解釈するものではなく感じるものなわけですから.