巨人の肩に立ちたいゲイ

30代ゲイのブログ。ゲイとしての考えたことをアウトプットしたり整理したりするような場にできればと思っております。

リアリティの不在:ボーイフレンドとはなんだったのか

この夏,ゲイ業界を席巻したコンテンツといえば間違いなくネトフリの「ボーイフレンド」だったわけです.男性同性愛者を中心に据えた恋愛リアリティーショーが企画されるというのはまさに時代ですね.いい歳をした9人のゲイ/バイが千葉は館山のコテージで共同生活を送り,コーヒートラックで日銭を稼ぐという建付けのどこにリアリティがあるのかは甚だ疑問ではありますが,このような指摘は野暮というものでしょう.

このゲストハウス,普通に予約できるようですが聖地巡礼などの需要は見込めるのでしょうか

恋愛リアリティーといえば,僕の世代からすると「あいのり」にはじまり「テラスハウス」で完成され,近年は「バチェラー」などのフォーマットが輸入されるに至った,というように見えます.所詮はどれも男女の恋愛模様を描いたものであり,熱中できた記憶はないのですが,当時から「男だけでこれやってくれよ」と潜在的に考えていたのかもしれません.一人の女性を大勢の男性が取り合う「バチェロレッテ」が発表されたときには若干の期待をかけたりもしたのですが,蓋を開けてみるとまあ,あまりの男性陣の魅力の無さに馬鹿らしくなってしまいまして.その点において,ゲイで構成されるという今回の「ボーイフレンド」はいやが上にも期待が高まったわけです.

 

で,鑑賞した感想はまあ至ってシンプルでして,僕がガチムチイカホモ信仰に近いものを有している側面があるからなのでしょうか,少なくともあれはゲイにおける真誠とは一定程度乖離しているように感じられました.要はそこまではまれなかったということです.メタな視点に立つならば,ゲイ男性よりよっぽど視聴者層として存在感の大きいストレート女性を念頭に,彼女たちがキュンとできる姿形をした男性がキャスティングされているように見え,「僕はこの想定視聴者ではないのかもしれないな」というある種の疎外感さえ感じました.非常にBL的要素・演出が行き届いていて,何を見せられているのだろうかと戸惑うというか.メンヘラな役どころを演じている整った顔の23歳アーティストという属性が,ひとつも僕にささらないのです.どうやら物語の中心だったようなんですけど.これはゲイを描いた報道ドキュメンタリーではないのだ,ゲイを題材にした大規模資本による商業コンテンツ(リアリティーショー)なのだ,そう思うことで一定の納得感を得るに至りました.

 

もちろんリアリティを感じる部分はあります.カズトに人気が一極集中するところとか.ゲイにとって,と言ったときに主語が大きすぎるとするならば,ナイモンやtwitterなどで人気ものになれる要素を客観的に分析した結果,どう考えてもモテ筋はカズトであるとかユーサクあたりに落ち着くわけです.しかし年齢信仰の根強いゲイ業界において,20代を中心に登場人物を揃えた場合,最年長のユーサクは分が悪い.というか,GOGOというキャラクターは明らかに異質で,物語に絡ませるにはあまりに現実味がない.テラスハウスに全盛期乃木坂46の主要メンバーぶち込んでるようなものであって.結果として,女性モテが狙えて,しかもそ以上にゲイ受けするカズトの存在というのはあのコミュニティの方向性を決定づけるだけの破壊力を備えているというわけです.

 

まあ,リアルじゃないと文句を言いつつも,中野区で底引網漁法よろしく雑にゲイを捕まえてきたとして.30~50代の短パンはいたガチムチヒゲ坊主が引っかかるわけでしょうが,そんな人達を館山に連れて行ってルームシェアなんてさせたらどうなるか.気になる人のポストに手紙をどうこうなんてイベントは成立しなくて,初日の夜からやりまくるに決まっているのです.なんなら部外者を連れ込むまである.そしてカメラなんて入っていなくたって,自らiPhoneないしGoProでその様子を撮影し簡単な編集の後に勝手にSNSに拡散してくれるでしょう.そう,おままごとではないリアリティーが既にfansには溢れているのです.シンコイというカリカチュアされたナラティブでもなければ,fansのような特異的な写実の断片の寄せ集めでもないとするならば,#Theboyfriendとはなんだったのでしょうか.

 

学芸会的ではあれど,作り手の意図は明確だったシンコイ

 

これを言ってしまえばおしまいなのですが,恋リアに出演する理由は一つで,要はインフルエンサーとしての認知を獲得することにあるわけです.特に同性が性的対象であることを明かしてメディアに露出する行為というは,令和の時代にあってもなかなか気合の入ったムーブ.そのリスクをとるだけの野心が彼らにはあるということにほかなりません.アルヴィン・トフラーの「第三の波」の頃から変わらず,最近は岡田斗司夫の評価経済社会などと味付けを変えて語られはしますが,要はそーゆーこと.MetaやGoogleの用意したプラットフォーム上で飯を食うことを誓い,ブーストをかけるためにNetflixでで私生活を切り売りする.まさにGAFAでFANGな時代のメインストリームですね.

 

そして,このボーイフレンドを見ていて感じたキツさを表現しようとしたときに,ふと類似の見世物があったことに思い至ったのです.それはミスコン.僕はルッキズムが悪いとは思っていないし,少なくともミスコン自体の存在は否定いたしません.しかしあれはキツい.何がキツいって,このSNS時代に自己顕示欲の権化と成り果てた素人女が相応のレベルのランウェイ歩きとMC声で身の毛がよだつ自己PRを繰り広げるあれの,どこにキツくない要素があるだろうか.全部に決まっているだろうが.薄笑いを浮かべながら見る娯楽としては十分に成立しているし,確かに本当にかわいいなと思う子はいる.それでもやっぱりキツいのは,ミスコンというコスパの良い企画を便利使いしたい企業と,業界へのツテを掴んで周りより一歩先んじたい広告研究会の学生と,自らのキャリアアップを睨んで出場する女子学生,そしてそのエンタメを無批判に享受する一定数の(男子)学生という構図でそのものなのです.欺瞞に満ちているのです.

 

これがね,例えば芸能プロダクションが企画するオーディションなら幾分かはましなんですよ.関係者の目的は端から明らかなので.しかしね,キャンパスミスコンだとか,ミス・ユニバース的なものだとかは,なんとなく耳障りの良い体裁で無理やり各々の野心を包み隠そうとしている感じが好きじゃない.いいじゃない,自己PRで「皆さんの力で私を日テレの女子アナに押し上げてください!」っていっても.企業だって「来年にはセントフォース所属になってそうな女の子たちの商品PR見てね!」って煽ればいいじゃない.広告研究会だって「このあと投票はあるけど,ミスと準ミスはもう決まってます!」って言えばいいじゃない...

 

ボーイフレンドにも同じ匂いを感じるんです.建付けは素敵な相手を探しに,みたいな感じですよね.んで,劇中はメンヘラ姫気質のシュンを除けばわりとみんな常識的で善良.協調性があって穏やかですよね.でさ,カップルが成立したりなんかして,それを祝福なんていしちゃって,これまでのゲイに対するスティグマの払拭を意図したような風味もあって,ダイバーシティー的にもオールオーケー.なんかこれ,くっそ寒くないですか?

 

結局,カズトはAVに出るような考えなしだし,コンテンツ放映に先駆けたいいタイミングでyoutubeチャンネルを始めていて,インスタなんかで自分のお店への導線をはるのにも余念がない.シュンとダイは同じ芸能事務所に所属してセット売りだし,そもそも出演前からインスタに10万人近いフォロワーいたわけです.ユーサクは30過ぎて裸踊り始めちゃうようなタイプで,fansでエッチな写真公開してたいそう稼いでいるのでしょう.それ自体が悪いとは言わないよ?でもさ,そんな野心バリバリな方々が「今夜は誰にお手紙書いちゃおっかなぁ」だとか「二人っきりでシフトに入るなんてドキドキするよぅ」なんてキャラをやっても整合性取れないでしょう.ご丁寧に性的対象の性別を確認しあうくせに,タチ・ウケのポジションは明かさないって,何だよそれ.遊びじゃねーんだぞ.

 

そのちぐはぐさこそがミスコン的娯楽の肝なのかもしれませんが,ミスコンはちゃんと女同士のバトルというこの世で一番おもしろいコンテンツの一つが明確に埋め込まれているわけで,その観点からするとゲイ同士のキャットファイト成分が不足していた感は否めないです.正直,女の争いに比べて男の嫉妬ってねちっこくて笑えないからそれはそれで適切な采配なのかもしれないですけどね.

 

そんなわけで,ボーイフレンドを見るくらいなら僕はonlyfansに課金するし,シンコイの新シーズンに向けてTAGBOATのアパレルを購入することにやぶさかではありません.堂山センチメンタルは大分期待外れでしたのでパスするとして,あとはちくわフィルムでしょうか.でもあれはいくらなんでも小汚いからなぁ.ドキドキ感を上手に演出できていた初期のThe Realが戻ってきてくれると嬉しいのだけど,最近はいまいち盛り上がりに欠けますよね.いずれにせよ,これだけ選択肢が増えたというのは贅沢なことです.映像作品ではないけれど,僕のブログも誰かの暇つぶしコンテンツとして機能できるよう,もうすこし更新頻度をあげていきたいところですので,季節外れのトピックではありますけれどとりあえず4ヶ月ぶりの投稿とあいなりました.