巨人の肩に立ちたいゲイ

30代ゲイのブログ。ゲイとしての考えたことをアウトプットしたり整理したりするような場にできればと思っております。やまとなでしこの頃の堤真一が好きです。

最近見たゲイ映画がどれもゲイ俳優使ってた話

新規のコンテンツに対する受容の度合いは年齢と確かな相関があるように思われ,最近では「まだ見ぬ名作を!」という意気込みは枯れつつあり,信頼と実績の監督や俳優,シリーズもの,ネットで大方の評価が定まった作品を鑑賞する日々です.一頃のような所謂ミニシアター系映画をリサーチする熱意が薄れてしまったのであれば,動画配信サービスにレコメンドされた作品群を甘んじて消費するのがお似合いなのでしょう.昔はそのような姿勢を憎んでさえいましたが,今の僕にはこれくらいがちょうどよい気がするのです.それに近頃では,各社のオリジナルコンテンツも層が厚くなり,例えばアカデミー賞のような権威もコロナを契機にこれらの参入を容認するに至りました.この傾向が継続するのだとすれば,アマプラやネトフリの新作にメジャースタジオの旧作,楽しむのにこれだけあれば十分でしょう.

 

さて,僕が好んで消費する鉄板コンテンツの一つにゲイにフォーカスした作品があります.この半年ほど,契約しているネトフリで立て続けにゲイ映画及びゲイドラマを見ました.セクシーなシーンもありそれだけでも満足ではあったのですが,気になることがひとつ.出ている俳優がかなり重複するのです.シングル・オール・ザ・ウェイで主人公を演じたマイケル・ユーリーはアグリー・ベティが出世作ですが,昨年日本公開されたスワンソングでもゲイの役を演じていました.好き.同じくシングル・オール・ザ・ウェイで損な役回りのジョックを演じたルーク・マクファーレンは,ハリウッド初のゲイのラブコメという触れ込みで興行的には大失敗したブロスに主人公の恋人として出演しています.大好き.ボーイズ・イン・サ・バンドのハンク役であるタック・ワトキンスはシングル・アゲイン(原題:Uncoupled)でニール・パトリック・ハリスの恋人役を演じていたイケオジです.愛してる!

 

タック・ワトキンスは左端です.デスパレートな妻たちの頃から愛してます.

さて,今年に入ってから見たゲイ・コンテンツでこれだけ出演者がかぶるのはなぜかと考えると,近頃のハリウッドで「マイノリティの役はマイノリティが演じるべき!」というムーブメントに依るものということになりそうです.なんかポリコレ的にも正しそうだけど,これっていろんな前提条件があるよなと思います.少なくとも例外はあるでしょう.演出の意図を持ってストレートの俳優を使いたいケースは当然想定されます.なんらかの障害を持った主人公を立てる場合,収益性を考えて非当事者の有名俳優を使うという判断と同様,実に正当なもの.

 

少し前に,「エゴイスト」でゲイに大人気の鈴木亮平がキスシーンやらあれやこれやをやるということでこの手の話が日本でも語られるようになってきた気がします.彼のインタビューでの受け答えがとてもわきまえていてお手本的であると話題になっており,言葉を選ぶことはとても良いことなんだけど,そこまでセンシティブな話題になっている現実というのは果たしてLGBTQ+の人々にとって好ましい状況なのか,ゲイというものを「普通に」受け入れていく土壌を醸成していく上で逆効果にならないか,常に考えていく必要はありそうですね.ま,件の鈴木亮平のコメントはかなりバランス感覚に優れた人の発言という感じがしましたし,別に不快感があったとかではないんですけど.

 

これ,リプリゼンテーションなんとかっていうんですよね.ようはレペゼンですね.出自がどうとか,どこが自分のテリトリーであるかとか,そんなやつ.ゲイの役は(カミングアウトした)ゲイに演じさせろ,ノンケが俺らのシマを荒らすなよ,ってのは言い過ぎなんだろうけど,我々も気にしてないとそれに近い主張をしてしまうことになりそう.「演じる」という行為は「自分ではない何者かを表現する」と解釈していいと思うのだけど,だとするならばゲストレートがゲイを演じることと,ゲイが自分ではないゲイを演じることに本質的な違いはないんだという気がしてなりません.

 

問題は,ある対象に対する正しくない理解に基づいて,またその理解を深める努力を怠った状態で,それをリプリゼンテーションし世間に発信すること.そしてその対象に対する誤った認識や偏見が広まり社会に固定化すること,なんだと思うんですよ.だとすると,行われるべきはプロジェクト遂行上の大前提として「表現の責任って重いから,ちゃんと客観的に評価できる機構を内部に持つべきだよね」みたいな思想が共有されることなんじゃないかなと.その結果として,登場人物全員が白人異性愛者ってなんか現実離れしててキモいから,もう少しリアルな構成にしときましょうとか,ゲイのキャラクターには当事者の俳優をキャスティングしたほうが作品のクオリティ上がるくない?という流れが理想ではあるんでしょう.それが逆転して,ゲイの登場人物は脳死でカミングアウトしてる俳優を当てとけば安牌,みたいな短絡を起こすと非常に勿体ない.

 

数年前から,米国アカデミー賞ではノミネート作品について多様性に関する基準を設けることが決まっていて,主要な俳優陣には人種・民族的マイノリティを含めること,登場人物の30%が女性・少数民族・LGBTQ+・障害者に属していること,ストーリー展開がこれらにフォーカスしていること,などを求めているようです.KPIは目に見えるかたちで定められるべきなので,このような基準もそんなに悪くないと思うのですが,これらはあくまで多様性に関する必要条件に過ぎません.これを満たすことが即ちリプリゼンテーションに配慮した作品であることの十分条件かと問われればもちろんNoでしょう.

 

映像作品,とりわけ映画というのは芸術としての側面を有するコンテンツの中で最も商業的なもののひとつであると言えます.単純に初期投資が圧倒的に大きく,意思決定においてファイナンスやマーケティングの占める割合が大きくならざるを得ません.スタジオにとって興行上の成功に大きく貢献するアカデミー賞の新基準を無視することは難しく,これから更にリプリゼンテーションへの意識は高まることでしょう.長い目で見れば良いことな気がするけれど,短期的には表現の萎縮に繋がらないとも言えないはず.ローレンス・オリビエのオセロー,ナタリー・ウッドのマリアだってホワイトウォッシングの槍玉にあげられることがあるけれど,禁忌みたいな扱いにするのもねぇ.それこそシェイクスピアなんて男が女で女が男でみたいな話ばっかりだし,だからこその演出の面白みだってあると思うんだけど.いや,これはちょっと別か.

 

ちなみにナタリー・ウッドが手厚く支援したゲイの脚本家は「真夜中のパーティー(原題:The Boys in the Band)」という舞台劇を書いて,1970年の映画化はハリウッド初の同性愛をテーマにした作品だと評されたりしています.それが2020年代になって僕の愛するタック・ワトキンスによって演じられるわけです.これまた昨年に日本で限定的に公開されていた「ボクらのホームパーティー」は明らかにこれを意識した作品で,まだ見ていないんですけどどこかで配信してくれないかしら.

 

密室の群像劇には名作が多いですからね.

結局のところ,ハリウッドのメジャー作品を含めてもっともっと普通にゲイが出てくる作品を見てみたいし,それをゲイが演じるならそれはすごく真っ当なことだと思うんだけど,まだまだカミングアウトしている主演級の俳優が少ない状況だとどうしても似たりよったりになって興ざめだよねって話がしたかったんだと思います.描き方が真っ当であれば別にストレートの俳優が出てきたっていいじゃない.例えばジェイソン・ステイサムのベッドシーンなんてもうね,是非とも男相手にやっていただきたいところですね.逆に,ゲイの俳優がストレートの役を演じることに何らかの制約がかかるってのも避けたい事象です.タック・ワトキンスには引き続き様々な作品に出演してもらいたいのです.

 

まあ,これまで散々やられてきたことを一気に反対側に振り切ろうとすると色んなところで過剰な反応が見られるのは仕方ないことなので,これからも僕らはその線引きを模索し続けなきゃいけないと思うんです.ノンケもそうだし,ボーダーを押し上げようとする僕らの側にだってその責任はあるんじゃないでしょうか.その先に,さらなるカミングアウト俳優が出てきて,積極的にエッチなシーンを演じてくれるならもうこれ以上にありがたいことはないですよね.