巨人の肩に立ちたいゲイ

30代ゲイのブログ。ゲイとしての考えたことをアウトプットしたり整理したりするような場にできればと思っております。やまとなでしこの頃の堤真一が好きです。

男子校に進学したゲイの中学受験に関する回想

2月1日という日付に対して,特別な感情を抱く人たちというのが一定数存在します.東京都の中学入試が解禁される日であり,その年の曜日に関わらず主要な学校は伝統的に2月1日を受験日としています.従って首都圏で中学受験を経験した人間にとっては非常に象徴的.短期集中の中学受験はこの日から3日ほどで大方の決着が付き,標準的には3年間にわたる塾通いの客観的な成果が「合格発表」という形で突きつけられます.もう20年以上前の出来事ではありますが,僕も毎年この時期になると中学受験当時の数日間を思い出します.ある種のトラウマとも言えるでしょう.

 

一昨年,柳楽優弥主演でやっていたドラマ「2月の勝者」は,そんな中学受験を題材とした数少ないドラマでした.サイドストーリーとして触れられることはあっても,真正面から受験を,それも中学受験業界を扱った地上波のコンテンツは阿部サダヲが主演の「下剋上受験」以来2つ目ではなかったでしょうか.高校受験や大学受験といった多くの人が経験するライフイベントではない,中学受験という特殊な世界.しかも,「下剋上受験」は1人の家族,とりわけ父親と娘の関係性を主観的に追ったサクセスストーリーであったのに対し,「2月の勝者」はある学習塾を取り巻く家族と塾講師達の群像劇として描かれました.

 

「君たちが合格できたのは、父親の経済力、そして母親の狂気」

 

このセリフに象徴される通り,劇中ではリアルな中学受験の実情が描かれます.ドラマは相当にマイルドに脚色されていますが,原作の漫画は業界人から見ても真に迫る描写が連続します.僕は受験生でもありましたし,大学・大学院時代は塾講師・家庭教師として多くの生徒とその両親,受験業界で働く大人を見てきました.子供に暴力を振るう父親,直前期に子供よりナーバスになってしまう母親,ある日突然自信をつけてみるみる成績の上がっていく男の子,両親の不仲で成績を落とす女の子,講習申し込みのノルマに追われる校舎長,やりがい搾取に気づかず低時給で頑張る学生アルバイト.どれも本当によくいます.「2月の勝者」ではこんなありふれた中学受験の一コマ一コマに焦点を当てて物語が展開します.

 

しかしながら,受験業界を描く限り,結局はその合否に大きなメッセージが込められてしまうことは避けられません.受かればそれまでの努力が肯定され,落ちればその受験生の物語は否定されてしまいがちです.その点においてドラマ版の「2月の勝者」は,結局のところ優しい嘘で全てを有耶無耶に包み込むラストで幕を閉じました.登場人物はみんなそれなりに納得のいく合格を勝ち取り,辛かった中学受験は終了.子どもたちの未来は依然として明るい,という描写です.現実には合格者の影にその数倍の不合格者がいます.数年間の塾通いの結果が必ず報われるとは限らず,ましてや中学受験は親による代理戦争の様相を呈していますから,本人の主体的努力とは別のところで勝敗が決しているとすれば,彼らはどのように挫折を受け入れればよいのでしょうか.父親の稼ぎが少ないから,母親のコミットが足りなかったから?

 

近頃は同年代の既婚者の子息が徐々に受験勉強を始める時期となり,何かと首都圏の受験事情について聞かれることが増えました.少子化にも関わらず毎年のように受験者数は増加しており,コロナ禍におけるオンライン授業の体制構築においては公教育が大きく遅れを取ったことから,この傾向はさらに加速しています.結果,中学受験未経験の両親が子供の将来を考えて「中学受験ってやっぱりした方がいいの?」と質問してくるという構図です.

 

個人的には,受験参入を自分自身のエゴだと認めることができない親は中学受験に向かないと思っています.そりゃあ中学受験は早熟な,もしくは一定の数理的センスが備わっている子供が圧倒的に有利ですし,そのような子を持つ親はどんなメンタリティでもある程度の成功を収めるでしょう.しかし,そうでない場合に重要になってくるのは親の胆力です.周りがやっているから,自分の子供がやりたいと言い出したから,誰かに勧められたから,という言い訳を排除出来ない限り辛い2/1を迎えることになります.「子供のクオリティ次第です」という救いのなさを差し引いても,公立には無い独自性や校風という魅力が中学受験にはあります.それを親が自己決定できるかが最も重要なのかもしれません.

 

僕は中学受験で男子校に進学し6年間を男だらけの学び舎で過ごしました.小学生の頃からゲイであることを自認していましたけれど,だからといって「男子校」であることを理由にその学校を志望していたわけではありません.単に両親が学校の教育方針(と進学実績)を気に入り,僕の成績がそのレベルに到達したから.それだけです.首都圏の名門と言われる中高一貫校は大抵が男女別学ですので,受験マシーンとしての性能が極まると自動的に男子校に進学することになる仕組みなのです.しかし僕は今でも母校のことをいたく気に入っており,その点において受験には肯定的なのです.

 

進学した学校では,それはまあ楽しくも緩慢な日々を過ごすことになりました.異性の目がないことによる馴れ合い,6年間の変わらない人間関係,高校受験と無縁であることからの怠惰.実生活でゲイであることが容易に露呈するタイプでなかったことも幸いし,概ね満足な学生生活となりました.ドラマや小説で耳にする「同級生や先輩に恋心を抱いてしまい...」というようなシチュエーションは一向に訪れることなく,とは言え当時のおかずは日体大出身の体育教師ではあったりして.奥手というか,そもそもゲイとして何らかの感情を他人ぶつけるという発想自体がなかったからでしょうか,特段悩んだり苦しいと感じることはありませんでした.

 

 

 

男子校というのはゲイにとって諸刃の剣なのでしょう.異性の目がない分,まわりと違う自分というものを強く意識させられる機会が少ない気もしますが,他方ホモソーシャルな社会では「ホモいじり」がエスカレートしやすくもあります.一定の学力レベルが担保された集団では民度の低いいじり・いじめは少ない傾向にある(気がする)ので,総合的には中学受験への参入はポジティブに働いたように思われました.実態として,同級生にゲイと思われる生徒は何人かおり,修学旅行で誰それに抜いてもらっただとか噂レベルの話は流れてきましたが(そして本人も半ば認めていましたが)それで彼を排除するとかという流れには全くなりませんでした.まあ,そもそもいじめのような現象自体が稀な学校ではあったのですけれど.

 

男女共学も,公立の中学・高校も,未経験の僕にフェアな判断など下せるはずもないのですが,受験の相談を受ける度に見知らぬ小学生の人となりを想像してみます.無責任にあーでもないこーでもないと子育ての悩みを共有し追体験するのは,なかなかどうして面白い.自分と同じ道を歩ませたい親,自分には叶わなかった道を歩ませたい親,原動力は違えど根源にある子どもへの期待と愛情は似たようなものです.子供を育てることのない僕にとっては本質的にどうでも良いことなれど,立春を過ぎてだんだんと春めいた日差しを感じるこの季節に,20年以上前の両親の決断にふと思いを馳せ,少しばかり感謝してみたりするのです.そういえば,マンガ「きのう何食べた?」で,ケンジが彼氏であるシロさんの父親に語りかける場面があります.

 

その頃の史郎さんは,自分が同性愛者だってわかっていたと思います.一匹狼でもちゃんと稼げる弁護士になろうって心に決めたんじゃないでしょうか.

それと,これは僕の憶測ですが,孫の顔を見せることができない罪滅ぼしとして,せめていい大学に入って弁護士になって…それが自分にできる親孝行だとおもったんじゃないかなあって…

きのう何食べた? 7巻より

 

 

当時このセリフを読んで,なんとなくしっくりする部分があったことを覚えています.半分くらいは世間を見返してやろう,みたいなノリ.もう半分は両親を安心させるため,みたいな.ただ,その礎になったであろう中学受験を決めたのも,そして経済力と狂気でもって息子を導いたのも両親に間違いはないので,結局のところ僕自身に主体性などなかったのかなという気もしてみたり.何れにせよ,息子はゲイだけどどっこい生きていますよ,ってことですかね.